IKH - 新知創造学際ハブ

What is The Humanities-based Interdisciplinary Research Center, OMU?

大阪公立大学 文学研究科 人文学学際研究センターとは

大阪公立大学文学研究科人文学学際研究センターのロゴ

大阪公立大学(OMU)文学研究科の人文学学際研究センター(HIRC)は、新知創造学際ハブの参画機関の一つです。2003年から続いてきた文学研究科都市文化研究センター(UCRC)を発展的に改組する形で、2025年4月に設立されました。人文学を主軸とした文理にわたる多彩な学問分野の融合を目指した学際的な研究を積極的に進めています。

大阪公立大学文学研究科

大きな建物とその前にある「OMU」のモニュメント
大阪公立大学 森之宮キャンパス

2022年4月に誕生した大阪公立大学は、大阪市が設置運営していた大阪市立大学と、大阪府が設置運営していた大阪府立大学が統合したものです。

2019年4月に公立大学法人大阪が設立された後、大阪市のキタ(梅田周辺)、ミナミ(難波周辺)、西の湾岸エリア(大阪港周辺)に加えて、ヒガシエリアを再開発しようという構想が持ち上がりました。再開発の起爆剤として大阪市城東区森之宮に大学のキャンパスを建設することが決まり、文学部・文学研究科はそのすべてが新キャンパスに入ることになりました。

大阪公立大学文学研究科は大阪市立大学大学院文学研究科を前身としています。2025年9月、大阪市住吉区の杉本キャンパスから、森之宮キャンパスに移転しました。

文学研究科には、4つの専攻、哲学歴史学専攻・人間行動学専攻・言語文化学専攻・文化構想学専攻があります。「時間と空間を共有しながら学び合うこと」を大切にする少人数教育を実践しています。

都市文化研究センター(UCRC)から
人文学学際研究センター(HIRC)へ

UCRC(Urban Culture Research Center)は、2002年から2007年に大阪市立大学大学院文学研究科によって実施された文部科学省21世紀COEプログラム「都市文化創造のための人文科学的研究」の拠点として、2003年に設立されました。都市をめぐる諸問題の学際的研究を推進する国際的な研究拠点で、当時は、上海・北京・ハンブルク・ロンドン・バンコク・ジョグジャカルタにある大学にサブセンターを設置していました。

その主な活動は、海外の多彩な学術研究機関との交流、若手研究者の支援、学術誌や英文電子ジャーナルなどの定期刊行物発行、学際的な共同研究の推進などです。中でも大学院生や大学院修了生を対象とした独自の研究員制度(UCRC研究員制度)により、若手研究者の海外発信力強化や研究活動を支援する取り組みが行われてきました。5年間のうちに160点以上の刊行物、事業推進担当者、協力者、研究員(若手)による数百にわたる論文として結実し、比較都市文化史・ツーリズム研究・文化資源論・知識人研究などをテーマに大きな成果を挙げました。

2006年、大阪市立大学の公立大学法人化に合わせ、現代のさまざまな都市の諸問題に対して実践的に取り組む大阪市立大学の全学組織「都市研究プラザ」が開設されました。これはこれまでの研究の蓄積を活かしたもので、大阪府内の街や海外の都市にも小さく移動可能なサテライト施設(「現場プラザ」「海外プラザ」)を設けるという全く新しいタイプの研究拠点でした。このプロジェクトは都市文化研究センターの21世紀COEプログラムを受け継ぎ、2007年にグローバルCOEプログラム「文化創造と社会包摂に向けた都市の再構築」としてスタートし、2021年度まで続きました。

2023年に、UCRCは東北大学金属材料研究所が中核機関を務める新知創造学際ハブに参画することになります。

2025年の森之宮キャンパスへの移転を契機に、大阪公立大学文学研究科ではUCRCの良さを残しながら「人文学を基軸とした多様な学問との協同」を掲げる新センター構築を構想しました。この人文学学際研究センター(Humanities-based Interdisciplinary Research Center: HIRC)は、当初新キャンパスに移転する予定だった2025年4月に開設されました。HIRCは人文・社会系の学問だけでなく、生活科学・理学・工学・医学・農学などを含めた理系の学問領域の研究者とも学際的な協同を推進する組織として位置づけられています。UCRC研究員制度は、HIRC研究員制度に引き継がれました。

2026年度には、専任教員を配置するなど、体制をより強化しました。

HIRC研究員制度

HIRCでは、年度ごとに、研究と発信の活動を主体的に行う若手研究者を対象にHIRC研究員を公募しています。ここでの「若手研究者」とは、年齢とは関係なく、学位取得前後の期間に自らの研究課題を進展させながら業績を重ね、 将来のキャリアパスにつなげようとする者のことを指し、応募には博士課程修了が条件です。HIRC研究員は毎年12月から2月まで募集され、4月から1年間の在籍となり、1年ごとの更新となります。

採用されると、①競争的研究費制度への応募に必要となる e-Rad 研究者番号の取得 ②大阪公立大学の図書館の利用 ③HIRCによる「若手研究者プロジェクト」への応募 ④文学研究科紀要『人文学学際研究』(査読有)への論文投稿などの権利が付与されます。

毎年度、最大50名のHIRC研究員の氏名と研究テーマがHIRCのウェブページに掲載されます。研究員たちは、研究交流会などで互いにコミュニケーションをとりながらHIRCの活動に積極的に協力し、年度末には報告書を提出します。

2026年2月に仙台で開催された第7回新知創造学際ハブ研究会にも、HIRC研究員数名が参加しました。

参考情報

新知創造学際ハブとしての活動

HIRCは、従来の大阪や世界の都市を対象にした都市文化研究を継続するだけでなく、より広く人文学を基軸に、自然科学も含めた多様な学問との共同・協働を推進することを課題として掲げているため、新知創造学際ハブ事業との親和性は高くなりました。

学内資料の科学的分析の可能性を探り、学内での自然科学分野との連携を追求するとともに、大阪府内の諸資料の科学的分析および他研究機関との連携を進めています。具体的な研究テーマを列挙します。

ソファーのまえでカメラに収まる人々
OMU森之宮キャンパスに集合した新知創造学際ハブメンバー
手前に見えるのはOMU校章をかたどったソファー(2025年12月撮影)

埴輪が作られた粘土の産地はどこ?

近畿地方で出土する埴輪の、生産地からの広域供給を明らかにするため、蛍光X線分析を用いた胎土分析を行っています。窯跡から出土した埴輪と、各地の古墳の埴輪の土を比較分析することで、どこで作られて運ばれたかを想定することができます。それは、埴輪そのものの特徴から推定する考古学的な解釈を裏付けることになります。

古墳時代の焼き物は大きく2つに分類され、ただ火に入れて焼かれた土師器(はじき)に対し、登り窯を使い高温で焼かれた焼き物を須恵器(すえき)といいます。窯を使う焼き方が渡来した直後は、須恵器は貴重品でした。作られる場所が限られていたため、王権本拠地で焼いたものがかなり遠くまで運ばれていたと考えられています。

埴輪も窯で焼くようになり、古墳近傍で焼いていたと思われますが、6世紀になると埴輪の特産地のような場所ができたと考えられています。例えば、関東ではいまの埼玉あたりに生産地があり、そこから千葉や茨城に運ばれるということが起こります。そのような広域供給を、近畿地方でも明らかにしようという取り組みが行われています。

大阪大谷大学 文学部 歴史文化学科

大阪府富田林市にある大阪大谷(おおたに)大学(旧 大谷女子大学)では、長年にわたり須恵器や埴輪の破片をすりつぶして粘土鉱物の成分分析をしていて、データの蓄積があります。

初めは理系出身の三辻 利一 教授が波長分散型蛍光X線分析装置を使って分析を行っていました。その教授が定年後、埴輪研究が専門の犬木 努 教授が装置を引き継いで分析を行っています。犬木教授は粘土の特性を示す6元素を選び、その比で特徴をとらえていくという、三辻教授以来の手法を取っているそうです。

これまでは依頼されたものを分析していましたが、学際ハブの支援を受け、近畿地方でもまだ分析されていないところや、生産と供給の関係で調べるべきところを重点的に選び、分析を進めています。例えば、大阪府堺市の日置荘西町遺跡や京都府木津川市の上人ヶ平埴輪窯などです。

関連ページ:「現物・原典」にふれると見えなかったものが見えてくる!?|大阪大谷大学 文学部

浮世絵の絵の具の分析

和紙に「太閤記」「桶狭間合戦」と縦書きされた本が展示されているようす
展示されている𠮷沢コレクションの一部

大阪公立大学の文学研究科では数万点の講談本関係資料「𠮷沢コレクション」を所蔵していて、森之宮キャンパスの図書館にもその一部が展示されています。

𠮷沢コレクションとは、講談研究者の𠮷沢 英明 氏が収集したもので、2021年に文学研究科に寄贈されました。その中には講談本1万冊が含まれます。講談本とは、講談師の講談を速記し活字にしたもので、明治から昭和にかけて貸本として今のマンガのような庶民の娯楽でした。

浮世絵で着物姿の女性が描かれ筆文字が書かれた本の表紙
『やまと新聞』第1182号付録(1890年)
「實説天一坊」初号表紙(月岡芳年画)

そのうち、明治20年代に発行された『やまと新聞』付録は表紙が浮世絵です。浮世絵が刷られたのはこの頃までと考えられています。浮世絵の絵の具は、伝統的な顔料が一般的ですが、江戸時代の終わり頃には西洋系の色鮮やかな赤や青が登場します。輸入絵の具は高価だったと考えられますが、『やまと新聞』の講談本は読者向けの付録で、表紙絵も安価に生産しなければならなかったはずです。この例を通して、輸入絵の具がどの程度普及しているのか探ろうとしています。

大阪公立大学の浮世絵を専門とする研究者が、西洋から輸入された絵の具が日本で使われ始め、どう普及していくかを調べたいということで、科学分析が検討されました。

大阪公立大学大学院工学研究科 物質化学生命系専攻

その絵の具について、同大大学院工学研究科の辻幸一教授との共同研究で、継続的に蛍光X線分析が行われています。蛍光X線分析は非破壊で表面の元素分析ができるので、絵の具分析に適しています。

ガラスの色素分析

大阪府立近(ちか)つ飛鳥博物館(大阪府南河内郡河南町)所蔵の、古墳から出土したガラス玉の分析を行っています。ガラス玉は装身具として使われていたもので、金属を加えることで色を出していました。

近つ飛鳥博物館

近つ飛鳥博物館は古く「近つ飛鳥」と呼ばれた地域(大阪府南河内郡)にある博物館で、古墳時代から飛鳥時代を中心に展示や活動を行っています。

「近つ飛鳥」という地名は「古事記」に載っているそうです。即位する前の反正天皇が、難波から大和の石上神宮に向かう途中で2泊し、それぞれの土地を、近い方を「近つ飛鳥」、遠い方を「遠つ飛鳥」と名付けたと言われています。「遠つ飛鳥」は奈良県明日香村周辺を指します。

全国の職人のルーツ、河内鋳物師

日本産の製鉄開始を鍛冶工房から探る

大阪府柏原市大県(おおがた)・大県南遺跡は古墳時代最大の鍛冶工房であったと考えられています。大和政権の鉄器工場と呼べるでしょう。

ここでは5世紀に朝鮮半島から輸入された鉄素材を使った鍛冶加工が始まり、6世紀後半に日本列島原産の鉄鉱石を使った製鉄が始まると、国産鉄素材を使うようになったと考えられています。これまでの分析で、あまり精製されていない鉄素材を使っていたと考えられ、国産鉄の利用開始を示すものと評価されています。6世紀前半までと、国産の製鉄が始まった6世紀後半以降との差を確認するため、柏原市教育委員会の協力を得て椀形鍛冶滓5点、鉄塊系遺物1点、鉄素材1点、粒状滓・鍛造剥片1点の分析を開始しました。

河内鋳物師の使った鉄や銅はどこから来たのか

中世になると、河内鋳物師(かわちいもじ)によって鉄製の鍋・釜や青銅製の梵鐘が作られるようになります。

南河内の丹南地域は、古代以来、鋳造品を作る伝統があったと考えられており、特に高い技術が必要な大型品など、全国に出張して鋳造品を作っていました。鎌倉時代以降、需要が高まり、各地で鋳物師が活躍して特産地が生まれていきますが、その職人のルーツが河内鋳物師であったという伝承が残されています。例えば、梵鐘で知られる富山県の高岡や埼玉の川越などです。

中世では、原料である鉄や銅は商品として流通していたものを調達していたようですが、それらの金属材は輸入品なのか国産なのか、あるいはその両方だったのか、科学分析で追及できないか検討を進めています。さらに、戦国時代の堺の鉄砲鍛冶にも関連すると考えられていますが、遺跡が見つかっておらずはっきりしていません。

岸本教授は、新知創造学際ハブの金属遺物ユニットに参加していて、金属遺物ユニット第6回研究会で話題提供がありました。

古文書に使われた紙はどこから?

大阪市立大学は江戸時代の古文書を数多く所蔵し、「OCU(Osaka City University)古文書画像データベース」として整備して、公開・活用してきました。例えば「伏見屋善兵衛文書」や「道修町三丁目文書」、「鍵屋茂兵衛文書」など、近世の人々の暮らしが分かる資料が多数あります。このデータベースは大阪公立大学に引き継がれています。

HIRCでは、例えば古い手紙につかわれた紙がどこで作られたものか、手紙を出す相手によって紙を使い分けていたのかなどを分析によって明らかにしようという構想があります。

関連ページ:OCU 古文書データベース

研究面のキーマン 岸本教授

HIRCで、学際ハブでの研究の鍵を握るのは考古学者の岸本 直文 教授です。2026年4月に岸本教授はHIRC所長に就任しました。

ここでは岸本教授のライフワークである古墳の研究と、学際ハブに対する思いをご紹介します。

古墳時代の始まりを明らかにしたい

岸本教授は、前方後円墳の形態を手掛かりに、倭国王墓の変化をたどり、古墳時代の政治的動向を追及してきました。

古墳時代には王は即位すると自分の墳墓を作り始めます。王が作った墓をモデルに各地の有力者も小さめの古墳を作るので、同じ形の古墳はその時代の政権のあり方を示していると考えられるのです。

もっとも古い倭国王の墓は桜井市の箸墓(はしはか)古墳です。その年代は、箸墓古墳をモデルとして造られた古墳に副葬された三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)から、3世紀中ごろに遡ると考えられます。卑弥呼が亡くなったのは247年なので、岸本教授は箸墓古墳は卑弥呼の墓ではないかと考えています。

前方後円墳の等高線が描かれた線画
岸本教授の名刺に刷られている誉田御廟山古墳の図

前方後円墳を時系列に並べる

倭国王の墓は、代替わりごとに少しずつ設計を変え、各地の有力者もそれに基づく類似墳を作ることが、古墳時代を通して繰り返されました。

箸墓古墳は同じ高さの段が4段重なった形ですが、次の世代の西殿塚古墳になると3段になり後円部の上段が高くなります。その後、前方部の上段も高くなり、後円部と同じ高さになり、さらに越えていきます。高くするため前方部の裾が広がっていきます。このような流れを手掛かりに、出土する埴輪などによる年代の情報も考慮して、岸本教授は倭国王の墓の年表を作りました。

長年の測量や発掘調査の結果もふまえた研究の結果、たどり着いたこの年表にあるように、古墳の構造と形から見た倭国王の墓は2つの系列があるということになりました。

それは何を意味するのか。長い間の考慮の末、2004年に結論に達しました。主系列と副系列と呼んでいる2つの系列について、岸本教授は神聖王の系列と執政王の系列ではないかと考えています。つまり、役割の異なる二人の倭国王がいたという考え方です。

古墳がどのように設計され、その形が伝えられたのか、実際の築造技術はどんなものだったのかなど、今まさに研究が進められています。

等高線で描かれた古墳が並ぶ年表
同じ時期に2つの古墳が並んでいる
岸本教授作成の倭国王の墓の年表
右上にあるのが箸墓古墳
赤線が神聖王、青線が執政王を表す

学際ハブのコミュニティに期待すること

岸本教授談「各自の専門もいろいろ、分析もさまざまで、理解するのは容易ではありません。研究会の手前の勉強会のような議論の場を設けて、いろんな資料の科学的分析の到達点や課題について、基本的な理解の共有が図れたらいいなと思っています。何が分かっていないか、こういうところが分かるといいねというような、考古学の研究者と分析の研究者が相互に共通認識を持てるような、大筋の整理ができたらいいなと期待しています」

机の前の椅子に座って振り向く男性
岸本 直文 教授

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